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大阪高等裁判所 昭和42年(う)227号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

<前略>よつて案ずるに、原判決挙示の各証拠によると、被告人は昭和四〇年一月一四日午後零時三〇分頃、事業用普通乗用自動車を運転して、大阪市南区日本橋筋一丁目から千日前を経て同市浪速区湊町方面に至る市電筋南側車道を西進中、先行車がエンジン・ストップを起したので、ハンドルを右切り、乗用自動車の通行が許可されている軌道敷内に入つて時速約四〇キロメートルで進行し、同市南区難波新地三番町一番地先千日前交差点に、さしかかつたが、同交差点の信号機は丁度東西進め(青色の燈火)の信号を示していたので、そのまま同交差点内に進入したところ、たまたま東進してきた市電が同交差点内にある千日前市電停留所の右側(北側)の安全地帯横に停車して乗降客を取扱中であるのを認めたので、安全を期して、速度を毎時約二〇キロメートルに落して右市電の左側面(南側)を通過しようとしたが、折しも右市電の後方から、同市電の降客名塩房子(当時一七才)が、被告人の進路を横断しようとして、北から南に向つて小走りに出て来るのを右前方約一・六メートルの地点に認めたので、急停車の措置をとつたが、間に合わず、自車の右前部を同女に接触させて、同女を道路上に転倒させ、よつて同女に対し加療約三カ月間を要する右大腿骨骨折の傷害を負わせたことが認められる。

しかして、右認定の事実によれば、被告人は軌道敷内を進行し、信号に従つて前記交差点に進入したが、対向の市電が交差点内にある右側(北側)停留所安全地帯に停車して乗降客を取扱中であるのを認めて自車の速度を毎時約二〇キロメートルに落して右市電の南側を通過しようとしたのであるが、原判決は「かかる場合、自動車運転者としては、電車に乗降する者が道路を横断しようとして、不注意に、突然、進路に進出して来ることが予想されるから、何時でも急停車できる程度に減速徐行の上、左右前方を注視し、進路を横断する者の有無を確認して進行し、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然、同一速度で、進行した過失により……」と判示して、被告人に過失を認め、被害者の傷害の結果が被告人によるものであると認定している。

なるほど、当時対向市電が右側安全地帯に停車して乗降客を取扱中であつたのであるから、その乗降客が不注意に信号に違反して道路を横断しようとして自動車の進路前方に進出して来ることもないとはいえないことは原判決のいうとおりである。しかしながら、前記認定のごとく、本件交差点には信号機が設置されていて、当時東西進めの信号を示していたのであるから、南北は止れの信号を示していた筈であり、被害者の連れであつて一緒に市電を降りたという証人安原チマ子の原審における証言によつても、南北は止れ(赤色の燈火)の信号を示していたことが明らかであるから、このような場合、自動車を運転して西進する者は、交差点内にある右側安全地帯に停車中の市電の後方から、降客等が信号を無視して進路前方に進出して来ることも全然予想しえないわけではないにしても、交差点に信号機を設置し信号を表示している場合、信号に違反して進出してくる歩行者は殆んどないであろうこと及び仮りにそのような歩行者があつたとしても、他の側は進めの信号が表示され自動車等の車輛が走行している以上、歩行者またはその保護者において左右の安全を十分確認するなど自己防衛の手段を尽すであろうことを一応期待するのが通常であつて、このように期待することを一概に非難することはできない。従つて自動車運転者としては、このような場合、どれ程無鉄砲な信号違反の歩行者が市電の後方から飛び出しても、事故の発生を完全に防止するに足りる措置を講ずべき必要はなく、信号違反の歩行者側の自己防衛手段と相俟つて、事故の発生を防止しうる程度の措置を講ずれば足りるものと解するのが相当である。けだし、もし、このような場合にまで一方的に自動車運転者に事故の発生を未然にかつ完全に防止するに足りる措置を講ずべき義務を課するならば、信号違反の歩行者に比し、信号に従つている自動車運転者に甚だ酷であるばかりではなく、原判示のように何時でも直ちに停車できる程度に減速すべきものとすれば、最徐行運転による交通停滞の原因ともなり、かえつて交通の安全と円滑を阻害し、自動車の高速度交通機関としての機能を奪うことになつて、交差点に信号機を設置した意味を失わせることになるからである。してみれば、このような場合、自動車運転者としては、安全地帯横に停車している市電のすぐ南側を進行するのであるから、一応市電の後方から信号違反の歩行者が進出してくることがあることも考慮して前方左右を注視しながら、時速を二〇キロメートル程度に減速して徐行すれば、仮りに右市電の後方安全地帯の西端(その西側に横断歩道がある)附近から道路を横断しようとする歩行者があつても、歩行者において急に飛び出すようなことのないかぎり歩行者側の停止、待避等自己防衛の措置と相俟つて衝突等の危険は一般に避けられるものと考えられるから、右の程度の注意義務を尽せば足りるものといわなければならない。そして、前記認定の事実によれば、被告人は安全を期して時速を約二〇キロメートルに減速して市電の南側を進行したところ、被害者名塩房子が市電の後方から信号に違反し、左方へ進路を横断しようとして南に向つて小走りに進出して来るのを右前方約一・六メートルの地点に発見したので、急停車の措置をとつたが(自動車は約四メートル進んで停車している)間に合わなかつたものであつて、被告人には右以上に減速徐行しなかつた点に過失があつたとすることはできない(もつとも、証人名塩房子は原審において、信号が青に変つたので南の方へ小走りで渡ろうとした旨供述しているけれども、右供述は証人安原チマ子の原審における証言に照らしても信用することができない)。また、被告人において被害者の早期発見及び急停車措置に欠けるところがあつたことも証拠上認められないし、その他、記録を精査し、当審における事実取調の結果を参酌しても、本件事故が被告人の過失によつて発生したことを認めることができないから、結局本件公訴事実は犯罪の証明が十分でないというほかはない。しかるに、原判決は被告人に前記のような業務上の注意義務があることを前提として、被告人に過失ありとして、有罪の言渡をしているのであつて、この点において法令の解釈適用を誤り、事実を誤認したものであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、到底破棄を免れない。論旨は理由がある。(奥戸新三 中田勝三 佐古田英郎)

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